「結城合戦」の舞台として知られる結城城。現在は茨城県結城市の城跡歴史公園としてその名残をとどめています。歴史の面影を訪ねて、結城城の周辺をそぞろ歩きいてみました。
遺構は残っていないけれど…
結城城跡は、JR結城駅から徒歩30分ほどの小高い岡にあります。県道結城二宮線の脇に駐車場が整備されています。
そこから田んぼの中の道を進み、「あじさい坂」を登っていくと、城跡に至ります。とはいえ、往時を忍ばせる遺構は何も残っていません。注意深く付近を歩けば水堀などの跡をたどることができます。現在は城跡歴史公園として整備され、春は桜の名所となっています。
「結城合戦」で脚光
結城城は、結城朝光が鎌倉時代の1183年、この地に築きました。室町時代まで代々結城家の居城でした。
結城城が脚光を浴びるのは、何といっても結城合戦です。1438年鎌倉公方の足利持氏と補佐役である関東管領の上杉憲実が対立、足利持氏が敗れて命を絶ちます。室町幕府の対応を不満に思った足利持氏の残党や結城氏朝・持朝親子父子が足利持氏の遺児を擁立し、反乱を起こします。結城氏朝らは結城城に立てこもりますが反乱は失敗、翌年結城城は落城します。
その後再興を許された結城氏は、再度この地に入り、江戸時代初期までこの地を納めました。しかし、結城氏を継いだ徳川家康の次男秀康は関ケ原の合戦後、越前に移ることに。結城一帯は徳川家が納める天領とされ、結城城は廃城となります。
1700年、水野勝長が結城を治めることになり、結城城が再築城されます。以後幕末まで水野氏の居城となります。戊辰戦争の際は江戸幕府を支持する佐幕派が結城城を占拠。新政府軍と戦になり、落城、そのまま廃城となりました。
1742~1751年には、俳人の与謝蕪村が結城の砂岡雁宕を頼り、この地に住んでいました。「蕪村」と号したのもこの時代だそうです。城跡歴史公園内には
「ゆく春や むらさきさむる 筑波山」
と記された句碑がたたずんでいました。城跡からは紫峰・筑波山の姿も望むことができ、蕪村の見たであろう風景を思い起こすことができました。
もう一つの目的は「御城印」
今回の目的の一つは、結城城の「御城印」をゲットすることでした。神社仏閣で配布されている「御朱印」のお城版です。結城城の御城印は結城市結城の「結城蔵美館」で販売されています。
結城城から市街地に戻った所に結城蔵美館はあります。本蔵と袖蔵があり、本蔵では、地域の作家の作品展示会などを定期的に開催しています。伺った時は、ひな人形が展示されていました(3月3日まで)。袖蔵は結城市の歴史を紹介するとともに、文化資料を収蔵、公開しています。館内は写真撮影も自由とのことです。
職員の方にお願いして、目的の御城印をゲットします。結城家バージョンと水野家バージョンの2種類があり、どちらも300円です。結城家バージョンの方が少し人気が高いとか。
何といっても見ものは、天下三槍の一つ、「御手杵の槍」です。「蜻蛉切」、「日本号」と並ぶ名槍で、鞘で杵のような形をしていることから、この銘が付けられました。全長約3.8メートルの巨大な槍身が特徴です。
室町時代に結城家17代当主の結城晴朝が、駿河国の刀工、四代目五条義助に作らせたと言われています。その後、養嗣子の結城秀康から子孫の松平大和守家(前橋・川越松平家)に受け継がれていました。
代々松平家で大切に保管されてきましたが、1945年の東京大空襲の際、所蔵庫が焼夷弾の直撃を受け、焼失。三名槍でただ一つ失われてしまいました。現在、同館には2003年に完成した復元品が展示されています。
最近では人気オンラインゲーム「刀剣乱舞」にも登場し、多くのファンが訪れています。館内には結城晴朝のパネルが展示されているほか、ファンの思いがつづられた、イラストや雑記帳も設置されていました。
ほぼ遺構の残っていない結城城でしたが、それでも周囲を歩くと、この地の歴史を肌で感じることができました。人気オンラインゲームを通じ、その名はさらに残り続けるでしょう。古い歴史とこれからの未来が混然一体になる、素敵な時間を過ごすことができました。
住所:結城市結城1330
電話番号:0296-54-5123
開館時間:午前9時~午後5時
休館日:木曜日
入館料:無料
ホームページ:https://www.city.yuki.lg.jp/kankou/spot/kurabikan/page000264.html